ワム!~音楽サークルSEA SPARROWS東京
ワム!
ともに1963年生まれのジョージ・マイケル(vo,b)とアンドリュー・リッジリー(g)が出会ったのは12歳のころだった。彼らは78年にもうひとりの友人と3人で16thフォームというバンドを結成。翌年にはさらに2人を加え、エグゼクティヴと名を改めて5人組で活動していた。しかし、ジョージとアンドリュー以外のメンバーが抜けたため解散。81年暮れにふたりはなけなしのお金をはたいてデモテープを作る。そうしで昔からの友人の協力を得て、CBSと契約。ワム!という名前でプロとしてのスタートを切ることになった。82年3月、彼らはシングル「ワム・ラップ!」でデビュー。続いて9月にリリースした「ヤング・ガンズ」が全英3位になるヒットをおさめ、その勢いにのって「ワム・ラップ!」もトップ10入りを果たした。3作目の「バッド・ボーイズ」も全英2位の大ヒットとなり、彼らは一躍スターダムにのし上がった。そして83年7月リリースのファースト『ファンタスティック』は若さあふれるダンス・アルバムで全英No.1を獲得。10月からは全英ツアーも始まった。84年6月発表の「ウキウキ・ウェイク・アップ・ミー」は初の全英No.1シングルとなり、さらに7月ジョージがソロで発表した「ケアレス・ウィスパー」も全英No.1の大ヒット。11月にはジョージのプロデュースで『メイク・イット・ビッグ』がリリースされ、この中からカットされた「フリーダム」とともに全英No.1に輝いた。このころ全米でも「ウキウキ・ウェイク・アップ・ミー」がNo.1を獲得、85年には「ケアレス・ウィスパー」、『メイク・イット・ビッグ』も全米No.1となり、彼らの人気は世界的なものになっていった。7月にライブ・エイトに出演した後、全米ツアーを開始。11月にはアイム・ユア・マン」をヒットさせている。しかし、86年に入ってジョージが夏のコンサートの終了後、ワム!を解散することを表明。3月にはジョージのソロ・シングル「ディファレント・コ-ナー」がリリースされてこれを裏付けた。そうして6月ロンドン、ウェンブリー・アリーナでのコンサートをもって、ワム!は解散、ラスト・シングル「エッジ・オブ・ヘブン」と2枚の編集アルバムが残された。この後、ジョージは87年にソロ・アルバム『フェイス』を発表。このアルバムは全世界で1千万枚以上をセールス、「アイ・ウォント・ユア・セックス」「モンキー」「フェイス」など6曲もの大ヒットを生み出し、ジョージは文句なしの大スターの座を獲得した。一方、長らく沈黙していたアンドリューも90年にカムバック、ジョージのバック・アップを得て初ソロ・アルバム『サン・オブ・アルバート』をリリースした。同年ジョージも『リッスン・ウィズアウト・プレジュデイス』を発表、ベストセラーにしている。ワム!を世界のホップ・スターに押し上げたのがこの『メイク・イット・ビッグ』。「ウキウキ・ウェイク・アップ・ミー」「ケアレス・ウイスパー」「恋のかけひき」「フリーダム」といったヒット・シングル満載で、中でも「ケアレス・ウイスパー」は全世界で16種類ものカバー・ヴァージョンが生まれるヒット作となった。デビュー・アルバムよりR&B色が濃くなり、彼らの若い勢いが感じられる84年作のセカンド・アルバムだ。ソロに転身してからのジョージ・マイケルは、ヒゲとか生やして。腰とか振って。何だかセクシー・マッチョ路線をひた走っております力・f。ワム!時代のコンパクトでソウルフルでキャッチーでメロディアスな彼のホップ・センスは本当に素晴らしかった。ニュー・シングルが出るたびに胸が高鳴った。本盤は、年齢のわりにモータウンとかスペクターとか、古いアメリカン・ポップスを聞き込んでいるジョージ・マイケルが本領発揮した大傑作。